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コトタさんの教えて!三国志 無双武将編 第60回 孫堅

基本データ

名前 孫堅(文台)

生没 155〜192

出身 揚州呉郡

正史 46巻 孫破虜討逆伝

親類 孫静(弟)、呉景(義弟)、孫策(長男)、孫権(次男)、孫尚香(娘)

 

なた「気付けば第60回ですね」

コトタ「それでもまだ残り34回ありますけどね!」

なた「先は長い!

   というわけで今回は孫パパこと孫堅です」

コトタ「孫策と孫権のお父さんですね」

なた「ええ。

   まず孫子の兵法書で有名な孫武の子孫として有名ですが、

   これは陳寿の言う通り"恐らく〜だろう"程度で微妙です」

コトタ「曹操が曹参の子孫だとか、劉備が中山靖王の末裔だとか、

    そこらと一緒ですかね?」

なた「それらはまだ信憑性がありますが何とも……。

   孫堅は17歳で海賊討伐で名を挙げて官職を得て、

   その後も活躍し、20歳になる前から各地の県丞(県令の補佐官)に任じられています」

コトタ「孫武の子孫なんて箔付けがなくても十二分に有能だった、と」

なた「ですね。

   そして黄巾の乱、直後の涼州の乱、さらに荊州における区星の乱と

   孫堅は次々と武勲を立てており、長沙太守となっています」

コトタ「黄巾の乱の後はすぐ反董卓連合の戦いと思ってましたが、

    色々あったのですね」

なた「ですです。

   無双でも描かれてない?と思うので少し詳しく話しますね。

   えっと董卓と孫堅の因縁が生まれたのが涼州の乱です。

   教えて!封神演義でも登場した太公望の出身と思われる羌族が蜂起しまして、

   涼州の韓遂と辺章がそれに乗っかったことにより大きな乱になっています」

コトタ「ほほう」

なた「以前張角の回で触れた気がする皇甫嵩が討伐の任に就いたのですが失敗し解任。

   次に張温(呉の四姓とは別人)が大軍を率いて向かうも、なかなかうまくいかない」

コトタ「何かあったのですか?」

なた「1つの師団を率いてたのが董卓なのですが、召還されてもすぐには応じず、

   単純に言えば遅刻してきたのですね」

コトタ「あらら……」

なた「さらに董卓は"来てやったぞ"という態度で張温に接します。

   張温の副官として孫堅や陶謙がいたのですが、

   "あんな奴すぐ処刑すべきだ!"とブチギレます」

コトタ「遅刻は軍規違反ですし、まあ処刑も妥当なのでしょうか……」

なた「しかし張温は孫堅を引き下がらせています。

   羌族との戦いのプロである董卓を惜しんだのでしょうね」

コトタ「そこで董卓を処刑していれば……」

なた「後に董卓によって廃墟となった洛陽を見た時、

   孫堅も同じようなことを言っていますね」

コトタ「ですよねー」

なた「その後涼州の乱は韓遂の動きによってトンデモな展開を見せるのですが、

   そこまで来ると孫堅の内容から離れすぎるのでやめておきます」

コトタ「簡単に何があったか教えてくださいよ」

なた「えー!長くなっちゃうー!

   でもコトタさんが望むならわかりました。

   えっとこの後の流れを簡単に説明しておきますね」

コトタ「お願いします」

なた「討伐軍は董卓の活躍もあって反乱軍を西へどんどん追いやります。

   しかし各地で羌族の抵抗は続き討伐軍は意外と苦戦。

   このタイミングで韓遂は辺章や羌族の首魁を殺害し自身に権力を集中させます。

   さらに王国という別の反乱軍のトップと同盟して涼州を制圧。

   ちなみに韓遂は馬超のパパである馬騰の義兄弟になっていますが、この頃のお話です」

コトタ「韓遂は何がしたかったのか……」

なた「そして韓遂、王国、馬騰は涼州での地盤を固めたので、討伐軍と交戦をしますが、

   ここでまた韓遂が謎の行動」

コトタ「何をしたのです?」

なた「王国を殺して討伐軍に降伏しています」

コトタ「ええ……」

なた「降伏は受け入れられ、韓遂と馬騰は将軍位をもらっています。

   というわけで涼州の乱は平定されました」

コトタ「よくわからないイベントですね……。

    孫堅はどうしてたのです?」

なた「先程"孫堅の内容から離れすぎる"と言った通りではあるのですが、

   このイベントの途中で孫堅は言葉通り涼州から離れてまして」

コトタ「えっ」

なた「荊州における区星の乱って上で言いましたよね。

   そっちが起こったので孫堅が担当しています。

   涼州の乱は黄巾(184年)の翌年に起こり189年に平定。

   区星の乱は187年のことです」   

コトタ「並行して発生してたのですね」

なた「ですです。

   孫堅は長沙太守として区星を軽く鎮圧し、

   その他荊州南部の反乱もさくっと勝手に平定しています」

コトタ「勝手に……」

なた「黄巾以後各地で反乱が起きまくり、対応に追われていたのもあったので、

   江南は孫堅に任せてしまおう、と封地を賜っています」

コトタ「評価はされてるんですね」

なた「んー……。

   評価よりも手懐けるのが目的ですかね……。

   孫堅に江南で反乱なんて起こされたら、たまったものじゃないですし」

コトタ「大人の世界怖い……」

なた「まあ後世でも忠烈の士である、と孫堅は評価されてますので、

   朝廷は孫堅を警戒する必要はなかったとは思いますがね」

コトタ「ふむ。

    その後どうなったのです?」

なた「皆さんご存知の反董卓連合へ参戦し活躍してます。

   それこそ華雄を討ったのは史実だと孫堅ですね。

   曹操同様に徐栄には敗れてますが」

コトタ「曹操と孫堅に勝ってる徐栄って本当一体何者なんですか……」

なた「孫堅の話からまたずれちゃう!!!

   えーっと、連合軍との戦いで色々あって董卓は長安へ遷都しました。

   孫堅は"董卓を追撃するより洛陽を復興すべきだ!"と廃墟となった洛陽で復興活動に尽力しています」

コトタ「孫堅が玉璽を手に入れたのはこの時でしたっけ?」

なた「正史の註によると江表伝ではそんな記述がありますね。

   しかし裴松之(正史の註釈者)はこれについて否定しています。

   "孫堅は忠烈の士なんだから、もし玉璽を手に入れたならば天下に対して公表しているはず。

    それをしていないってことは、こんなエピソードは嘘だろう"と」

コトタ「確かに玉璽を手にして、それを隠せば野心の証拠ですものね……」

なた「ですね。

   そして孫堅は洛陽の復興活動後、

   荊州への帰り道で劉表軍といざこざがあり、結果として殺されています」

コトタ「何で劉表が孫堅を殺したのです?」

なた「劉表が袁紹派だったからですね」

コトタ「……?」

なた「あえて言ってませんでしたが、孫堅は袁術派でしてね。

   無双でも袁術とのやり取りがあったと思います。

   黄巾の頃は朱儁の元にいたと思うのですが、朱儁に権力がなくなっていった為、

   名門の袁術をバックにつけたのでしょう」

コトタ「袁紹と袁術はこの時点で対立を始めていたってことですか。

    そう言えば孫策が袁術の元にいたのも、その流れからだったのですね」

なた「ええ。

   孫堅が生きていたら、二袁戦争はもちろんのこと、

   曹操・劉備・呂布による徐州の戦いも大きく変わっていたでしょうね。

   袁術は孫堅を豫州刺史に任じていますし」

コトタ「劉表と曹操、どちらにも睨みを効かすことができる地ですね」

なた「というわけで孫堅についてはここまでです」

コトタ「次回をお楽しみに!」

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